恋歌

 

彼が店に入っていくと、店の一番奥に先客がひとりいるだけだった。顔なじみの店の主人は、扉の開く音に振り向いて彼の名前を呼ぶ。
「いらっしゃいませ、ジェローデル様」

主人と向かい合わせになる椅子に、彼は座った。先客とは席1つ分だけ離れて。
「なにか、あまり愉快でないご様子ですね」
彼の前にグラスを置きながら、主人が問いかける。
「まあね」
職務についている間はあまり感情を表に出さない彼だったが、ここへくると、多少仮面もずれるのか、隠していた感情の波が見えている。
「・・恋人と喧嘩をした」
「それはまた」
「こんな喧嘩にありがちだよ、たわいもないことで。原因は・・何だったかな。彼女が机を叩いて席を立ち、私は黙ったまま後を追わなかった。それきりだ」
「まだご立腹なのですか」
「・・・・・いや」
「でしょうね」
「暫くは、恋人が出ていった扉の方を見もしない。椅子に座り込んで、肘掛を握り締めている。が、やがて力が抜け、天井を見上げて溜息をつく」
「もう後悔していらっしゃるでしょう」
「全くそのとおりだよ。こういう喧嘩は百年も前から変わらないんだろう。いっときの熱さが冷めれば、ただ悔やむだけだ」
「では、ここで酒など飲まずに、今すぐ恋人の前で跪くべきですね」
「そう思うか」
「ええ」

彼は眼を落として、手つかずのままのグラスを見つめた。
「・・不安なんだ」
「何故です」
「彼女に関しては、自信などひとつもないよ。毎日不安にとりつかれている」
「あなた様らしくもない」
「そうだろうな」
「・・・・飲み物を替えましょう」
「ああ、もっと強い酒に」
「かしこまりました」
「他で飲んできたんだろう、それ以上は止めた方が良いんじゃないか」

「・・やっと、口を聞いてくださった」
「・・・・」
「隣へ座っても?」
「・・ああ」
彼は一度立ち上がり、音をあまり立てないようにして隣の椅子を引き、腰掛けた。
「貴方も、随分と強い酒を召し上がっているようですね」
「これくらい、酒のうちには入らない」
「ふふ、確かに。これしきの酒では、川の水ほどにも貴方を酔わせないでしょう」
「お前は多少まわっているな、饒舌になってる」
「沈黙が恐ろしいので」
「・・・」
「黙り込まないでください。なにかひと言でも声を。意味のない音の羅列でも・・歌でも良い」
「歌など歌ったことはないよ」
「嘘ですね」
「聞いたことがあるのか」
「聞きたいと願っていましたよ。ずっと昔から。望みすぎて夢に見たほど」
「夢で・・ね。私は何を歌っていた」
「何でしたか・・さあ。ああそうだ、子守歌でした」
「子守歌?」
「そう」
「それこそ、一度も歌ったことがない」
「歌っていただけませんか」
「お前に?」
「私に」
「・・・」
「答えてください、何か言って。貴方が沈黙してしまうと、私は恐ろしく不安になる」
彼女はしばし躊躇った。そしてグラスの中に指を浸すと、濡れた指先を彼の唇に持ってきて、静かに歌いだした。

樫の木の下の子どもよ 太陽がお前にキスをしている
楡の木の下の子どもよ 夜がお前に微笑んでいる
愛しいお前はどこから来た 木漏れ日と一緒に空から来た
愛しいお前はどこから来た 星明りと一緒に空から落ちた
空から落ちて愛しいお前は私の腕の中へ

「子守歌というよりは、恋歌のようですね」
「どうかな、覚えているのはこれくらいだ。子守歌なんて、もう何年も聞くこともなかったな」
「オスカル、私は」
「うん?」
「私は、貴方のことを何ひとつ判っていない気がする」
「・・・・」
「言い争った時も、私は貴方が何に腹を立てていたのか、本当のところは判っていない。わからないから不安になる。貴方を心から求めているのに・・理解することが・・できな・・」
「私はお前を愛しているよ。それだけでは・・足りないと」

答えはなかった。暗がりの隅で、彼はオスカルの肩に首を持たせかけたまま、眠っていた。
「お休みになられた?」
「ああ」
「この方がこんなに乱れられるのは始めてみました」
「そうなのか」
「ええ、随分前から存じあげておりますが」
「多分、彼と私が見ているものは違うんだ。だから・・これからも、こんなことはあるだろう」
「見ているものが同じでなければ、愛しあえないわけではありません」
「愛しあっている。それだけで、ひとつに溶け合えはしない。違う人間なのだから」
「違うからこそ惹かれあうんですよ・・灯りを消しましょうか」
「ありがとう」
主人は、オスカルの傍らの蝋燭一つだけを残し、他の灯りを消していく。彼ら二人だけが、かすかな光の中に残されると、主人もいつの間にか暗がりの中に消えていった。

「愛しいお前は私の腕の中へ・・ヴィクトール、愛しているよ。理解しあえなくても、たとえ離れてしまっても・・きっとずっと愛している」
耳に届く彼の静かな呼吸に、自分のそれをあわせていると、オスカルの瞼も次第に重くなっていった。頬にあたる栗色の髪に顔を埋めて壁にもたれると、揺らぐ蝋燭の灯りが遠ざかる。夜は恋人達の眠りを包んで闇の中に沈んでいった。

 

END