遺言

あなたに話しておこう。これが最後になるかもしれないから。

 

この子の名前はオスカル!

父がそう高らかに命名したとき、私は見ていた。私が見たもの、それは高揚した父の表情ではなく、その先にある、荒れ狂う嵐だった。たきつける白い闇。遠くに聞こえる雷鳴。生まれてすぐ、母の胎内から出てきたばかりだというのに、見えたはず、聞こえたはずがない。でも私は自分の記憶が確かだと判っている。私は目を開けて生まれてきた。生まれたばかりの世界は眩しく、喧騒に満ちていた。

栄えあるフランスを守る者として、男として生きろ。剣を取れ、戦う術を学べ。敵の振り下ろす剣先の動きを予測しろ。円を描く剣の軌道の、どこに当てれば跳ね返せるのか知ることだ。姿勢を低くし、脚の内側を狙う。動脈が通る処は弱い。非力は策略と俊敏で補え。他人の嘲笑は跳ねのけ、付け入る隙を与えるな。強ければお前を傷つけようとする者はいなくなる。

私は戦うものとして生まれ、そう育てられた。戦う技術は教わった。では、それ以外は?

敵は常に人間だった。故に技術だけでは不足する。人の心の動き、揺らぎ、困惑。どのような時に人は強くなり、恐怖を感じ逃げ出すのか、私は知らねばならなかった。自分で重い門扉を押し、ひとり外へと歩み出た。幼い足でもひたすらに進んでいけば、深い森に辿り着く。暗く覆いかぶさる木々。足や手に傷をつける棘のある下草。私は進んだ、息が荒くなっていた。
そして眼前に突然、黒い犬が現れた。幼子の身体より大きく、低く唸っている。私は後ずさり、つばを飲み込んだ。己の鼓動で、他の音が聞こえなくなった。大きく息を吸い込み、止める。荒い息遣いは弱さを気取られる。足に力を入れ、腕を広げる。身体を縮こまらせては駄目だ、動けなくなる。腰には剣があった、しかし手を伸ばすことが出来ない。一瞬でも気を逸らせば、飛び掛かってくるだろう。どうする、どうすれば。

その瞬間、雷鳴が鳴り響いた。轟音と振動が足に響く。犬は飛び上がるように踵を返し、何処かへ走っていった。私はそのまま立っていた。
暗い森がさらに暗くなり、木々の葉の間から雨粒が滴ってきた。己の足元の泥濘の冷たさでようやく気付き、その場にしゃがみこむ。私は雨に濡れ泥にまみれながら、泣いていた。

生まれて初めて感じた、心からの恐怖。

私は学んだ。恐怖は与えられるのではなく、与える側にならなくてはいけない。剣の教師が、喉元に噛み付くような私を持て余しはじめた頃、彼がやってきた。

 

―――でも、それはおかしいよ。何の為なの?

私は父から、剣の相手だと聞かされていた。しかし彼は、男でありながら戦う術を知らなかった。勿論、剣の相手など務まらない。むしろ、私が彼に教えなくてはならない。人に教えることで自らも向上すると、父や教師から異口同音に言われたが、私は怒りを感じていた。男なのに戦わず、私より弱い。どうして守らない、戦わない。

誰を守るの。戦って相手を殺して、何を守らなきゃならない?
国を守る。
何の為に?

何の、為?

彼が知っているのは、天候の読み方。河が急に深くなっている場所。渡り鳥の帰る季節。木の実、魚、冬の兎の見つけ方。蜜の甘い花、親鳥が雛を呼ぶ声、狐が通る道、かくれんぼで見つからない方法、樹の上で眠るための枝の探し方、人を愛すること、信じること。

私は誰と戦って、何を守るのだろう。

 

六歳の私は、戦う理由は恐怖だと思っていた。恐ろしいから怖いから戦う。食い殺される恐怖から、人は剣を振るい引き金を引くと。でも、そうではなかった。

あれから長い年月、私達は一緒にいた。私は彼に剣を教え、彼はそれ以外全てを教えてくれた。渡っていく雁の列の美しさや、月の満ち欠け。夜空に近い部屋で、一番光る星を探す術。そして・・誰かを愛すること。彼の眼を見つめ返すといつも、暖かく懐かしく、そして泣きたいような気持になった。それが愛だということも、気づかせてくれた。
人にとって本当に恐ろしいことは、愛する人を失うことだった。私に疑問を投げかけた幼い彼はもう、それを知っていたんだ。失う怖さを知ってもなお、彼は人を愛する心を持っていた。

私が他の男性を見ている間、苦しんだだろう。私たちの愛が認められず、祝福されないことも辛かった。愛することの苦しみ悲しさを、知っていてなおも、私に教えてくれたんだ。
どれほど恐ろしくとも、光が消えることはない。命が尽きようとする瞬間でさえ、懐かしさと愛で満ち足りると。
彼が生きる全てを、教えてくれた。だから私は自分が何のために生まれ、何のために戦うかを知ることができた。今の私は、幼かった彼の問いに答えることが出来る。

 

その答えをあなたに伝えておきたいんだ。彼も、私も死んでしまった後に、誰かがその答えを知っていてくれたら。私が生まれ、彼に出会い、愛して生きた、その意味がある。

 

耳を貸して、あなたに伝えよう。ひとこと、

 

ただ、ひとことだけだから。