歩み去る人々

オスカル、あなたはどちら。留まるの、それとも去ってしまうのかしら

 

 

「こんなお伽話があるの」

 

その国の王は代々、繁栄を約束されていた。王が君臨する限り、国は栄え、戦には勝ち、栄光は遍く国中に広がるだろうと。事実、王の権威は御代を重なるに従って増した。沈まぬ太陽のように、王の威光は外国まで輝き渡った。世界に冠たる大国となり、王の宮廷は全世界の規範となった。宮殿には汲めども尽きぬ泉。軍隊は威容を誇り、金の肩章は栄光の証。宮殿は夜の闇を散らすほど、連夜光り輝いた。

まさに王の中の王、世界最強の国。でも、たったひとつ。

秘密があった。

夜に輝く花火の上がる、その宮殿の地下に、ひとりの子どもがいた。花とワインと、踊りさざめく貴婦人たちの足元に。
その子どもは、生まれて間もなく母の元から連れ去られ、地下へと閉じ込められた。灯りひとつない、風も吹かない。濁った水が岩肌から滲みでて、足元はいつも泥濘んで冷たい。言葉をかけるものはおらず、一日に一度、腐ったような粥が鉄格子の向こうから投げ込まれた。糞尿に塗れ、皮膚は爛れ、歩くことも、言葉を発することもままならない。確かに生まれた時は、暖かい胸に抱かれていたはずなのに。その僅かな記憶さえ、朧になってしまっていた。
時折、いつもの足音とは違う誰かが鉄格子の前まで来ているのがわかった。でもその誰かも、うめき声と悲鳴しか出さず、足早に去っていった。

子どもは王の子だった。代々の王は、初めて生まれた子どもを地下に閉じ込め、その代償として繁栄を手に入れた。子どもが生涯を暗黒の中で終えるまで、国は繁栄する。そのことを王は忘れない、勿論王の忠臣たちも知っていた。たったひとりの子どもの犠牲の上に、己らの安寧があることを。王と忠臣たちは、地下へ降りていく。その暗い目の子どもの姿を確かめる。ある者は呻き、ある者は嘔吐し、ある者は眉すら上げなかった。

それでも誰かは思っただろう、あのむごい子どもを助けられないだろうか。鉄格子と暗闇から解放し、陽の光と愛を与え、もう苦しみは終わったのだと、そう告げることが。しかしその瞬間、国は崩壊する。軍は敗退し、国土は蹂躙される。無辜の民は敵の刃の犠牲になる。たったひとりの子どもを助けただけで。

子どもの犠牲はやむを得ないものだ、地上の何千何万の民の安寧と、国の繁栄のために。そうやって栄えた国にある時、外国から王妃がやってきた。

王と王妃には何年も子がなかった。王妃は神に祈り悪魔にさえ縋った。どうか、どうか子を授けてください。そうしてようやく王女が生まれた。王の優しい瞳と王妃のつんとした唇そっくりだった。王妃は片時も王女を離さず、朝にはリボンを結んでやり、夜は歌で寝かしつけた。幸福な数ヶ月がすぎた後、王から娘の試練を聞かされた。
ーー嫌です、嫌!
王妃は決して譲らなかった。心優しい王は困り果てた。犠牲無くして繁栄はない。その理りだけは曲げられない。
ーー犠牲が必要なのですね。ならば。

 

「王妃は、愛しい娘の代わりの犠牲を差し出したの。何があっても、我が子だけは守る。どれほどの犠牲を払ってでも」
「それは・・何だったのです。代わりの犠牲とは」
「・・・国の民」

 

王妃が差し出したのは民だった。民は困窮するだろう、飢え苦しみ血を流すだろう。それでも王と王妃は我が子を捧げることはできなかった。それからも国は繁栄した。遠く海の彼方まで戦を広げた。未だ、宮殿は夜を知らず、花火は上がり、宮廷は全世界の中心だった。
しかし、いつからか。光の宮殿が軋み出した。雨が鏡に囲まれた広間に吹き込み、汚水は貴婦人の裾を汚した。海の彼方の戦には負けた。湿地の宮殿は濁った風しか吹かず、王妃の子ども達も死んでしまった。

 

「王妃は・・報いが来たことを知ったのよ。民は犠牲のままではいなかった。地下の牢獄から立ち上がって、地上へ溢れ出てきた」
「・・・ええ、その叫びは国中に轟いています」
「代々の王、忠臣たち。彼らは犠牲が仕方のないことだと信じていた。でも・・その中の幾人か。本当に偶さか、子どもの犠牲に安住することを選ばず、国から歩み去っていく人がいた。子どもの暗い瞳、終わることのない絶望。それがやむを得ないことだとは、どうしても思えなかった人達が」

「オスカル、あなたはどちらなの。子を捧げた王、民を犠牲にした王妃のそばに留まる?それとも・・」
「それとも・・・」
「歩み去る?」

 

 

ーーーオール・ヴォワール
また会いましょうと言ってくれたのは、あなたの最後の優しさだったわね。あなたは去って行く、二度と戻ってはこない。子どもの、民の、暗い絶望の叫びから、耳を塞ぐことのできないあなたですもの。
でもオスカル、あなたは知っている。そして忘れないで。民を犠牲に捧げたのは、私が最初でもなく、最後でもない。我らが生き延びるために、彼らの犠牲が必要だ。そう考える人間は多く、決していなくならない。

でも、どのような世界になっても、あなたのような人はいるのでしょうね。それが・・どれほど微かに、儚いものでも。

 

 

私は、希望と呼びたい。

 

 

原案;オメラスから歩み去る人々 アーシュラ・K・ル・グィン