こんな風に 人を愛するとは思いもしなかった
彼女が言う
そうだね まるで水の中に引き込まれるように
水面に手を伸ばすように 愛するとは思いもしなかった
でもより深く引き込まれ
とっくに息もできなくなっているのは俺
それでも お前の前では息をしているふりをする
俺の方が深いから 息をするふりをするのが上手くなったんだ
少しずるいけど 許してくれるだろ
多分俺のほうが少し 深く愛しているから
こんな風に 人を愛するとは思いもしなかった
彼女が言う
そうだね まるで水の中に引き込まれるように
水面に手を伸ばすように 愛するとは思いもしなかった
でもより深く引き込まれ
とっくに息もできなくなっているのは俺
それでも お前の前では息をしているふりをする
俺の方が深いから 息をするふりをするのが上手くなったんだ
少しずるいけど 許してくれるだろ
多分俺のほうが少し 深く愛しているから
私は冬の嵐の夜に生まれたんだ。だから、どれだけ雪が降っていても平気だ。私にとって、雪は守護聖人だから。
いつまでも暑さの残る晩夏の、しかも、南生まれの俺にとって、冬の寒さは敵でしかなかった。館に来て半年、迎えるはじめての冬は、故郷とは比べ物にならない位、底冷えに冷たい冬だった。朝起きた時でさえ、息が白い。寝床から出られずもがいていると扉にノックの音がする。
「アンドレ!」
返事も待たずに入ってきて、俺をベットから引き剥がす。使用人より早起きする主人に起こされることの愚より、暖かな寝床から離される方が辛かった。
「行くぞ。誰よりも先に雪に足跡をつけるんだ」
その年は、例年より雪が積もるのが遅かったと彼女から聞いた。昨晩から音もなく降り続いた雪が、その日の朝世界を白く染めていたことを俺はまだ知らなかった。
「早く早く!」
俺が上着に袖を通すあいだももどかし気に急かす。こんな寒い朝にと思うが、いつもより上気した彼女の白い頬と、朝の光に輝く青い瞳に、何故か心が浮き立つ。手を引っ張られるようにして階段を駆け下り、彼女が扉を開け放った。
――――白い、一面の真っ白な世界。
俺は声も出せず、朝の光を浴びて輝く雪面に見入った。
「すごい・・」
南の村ではここまで一面が白くなることはなかった。
「アンドレ、もっと遠くまで行こう。僕たちで全部足あとをつけよう」
「待ってよ、オスカル」
先を走る彼女が、笑いながら駆けていく。木々の枝を揺らし雪を散らすと、舞い散る結晶が光をはらむ。純白の雪面についていく小さな足跡。追いかける俺にいたずらっぽく振り返り、雪玉を投げてくる。
「なんだよ、もう」
固めようとした足元の雪は柔らかい。南に稀に積もる雪は半ば解けながら落ちてきて重かった。
軽く柔らかい雪が、走る彼女のまわりに散って、高くなる陽に輝く。いつもの風が木々を揺らす音や、獣の足音も聞こえない。彼女と俺のはしゃぐ声しかしない。雪の日がこれほど静かで、厳かでさえあることを知らなかった。
「オスカル?」
先を走っていた彼女が急に立ち止まった。
「しぃ・・っ」
俺を制して、雪の吹き溜まりの陰に蹲る。俺も静かにそばにいってしゃがみ込んだ。
「・・ほら」
彼女がそっと指さす先に、白い雪とは微妙に違う色がある。光って見えにくい雪面に風の動きとは違う何かが動く。
「あ・・」
「兎だ」
一匹の兎が耳と鼻を動かしながら、雪の上を歩いていた。
「あんなに白いんだっけ?」
故郷で良く見かけた兎は大地の色と同じ茶色だった。
「冬毛で白くなる。その方が見つかりにくいんだろう」
小さな生き物を脅かさないように、お互い耳を寄せて小さな声で話す。彼女のくせっ毛が頬にあたって冷たい。間近で見る青い瞳。雪原の光を反射して煌めいている。
兎はまだきょろきょろと辺りを見回している。あんなに白くて小さな生き物、触れたら雪のように冷たいだろうか。それとも、確かに生きている証として暖かいだろうか。
「アンドレ!」
彼女が小さく、でも興奮した声を出した。白い兎の向こうにもう一匹。でもその兎は。
「茶色いままだ」
「冬毛に変わらなかったんだね。あれじゃ天敵に見つかりやすい」
「そんな・・」
思わず立ち上がりそうになる彼女を俺が抑えた。
「オスカル、どうするつもり」
「だって、あれじゃ冬が越せない」
「だからって連れ帰ったりできないよ」
「でも!」
思わず強くなる声に、二匹がぴくりと反応した。俺たちの方を一瞬見て、雪を蹴立てて走り出す。
「あ・・」
二つの影はあっという間に見えなくなった。立ち上がると、俺たちより小さな足跡が二つ並んで木立の方に続いていた。
「あの兎・・」
「オスカル、大丈夫だよ」
「どうして?!」
「だって、二匹でいただろう。茶色い兎はひとりぼっちじゃない」
彼女は頬に伝った涙を濡れた手で拭い、並んだ足あとのところまで歩いて行った。
「ひとりじゃ、なかった」
「うん」
「そう・・なんだ」
足跡の先を見つめている間、彼女は俺の手を握ったままだった。木立の木々を風が揺らす。雪が舞い、彼女の金色の髪に降り注ぐ。
「オスカル、帰ろう」
「うん・・」
俺は踵を返し帰ろうとする。
「え?あれ?」
「どうした、アンドレ」
「どっちから来たっけ?」
さほど遠くに来ていないはずなのに、雪が見慣れた光景を一変させている。
「ははっ、アンドレ。ほら」
笑う彼女が指差す先に、兎より一回り大きい二つの足跡がついている。兎の跡とは違う方向。でも同じように二つ並んでいる、ずっと続いている。
「館まで競争だ」
「え?待って、ちょっと」
兎のように雪を蹴立てる彼女の後を追いかける。肩の上で揺れる金髪、時折振り返るいたずらな瞳。それから、俺はずっと彼女の背中を追っている、見つめている。
そのあと、館に帰り着いた俺は風邪を引いた。オスカルのひんやりした掌が額にあてられる。外はまた雪が降り始め、音もなく積もっていく。俺たちの上にも、あの寄り添った二匹の兎の上にも。